二十年
4/30で、私がこの業界に入って、20年経過。5/1から21年目に突入です。
大阪芸大を卒業後、フリーのイラストレーターになろうと上京し、チマっとしたお仕事を頂きつつ、東中野の風呂無しトイレ共用アパートで生活し始めました。
そんな生活が始まってすぐ、当時のゲーメストにスクウェアの求人広告でFF6の画像が使われていたのを見て、『お。ゲームでもこんな絵画的な表現が求められてきているのかー。面白そう』と思い、履歴書や作品を送ってみたのが切っ掛けになります。
就職活動って感覚は全く無かったかな。応募したのも、このスクウェアのみ。
5月入社なのは、4月にこんなフリー期間があったから。
この時スクウェアに通ってなかったら、業種の違う、また別の人生を歩んでいたかもしれません。
■1994年の5月にスクウェア(現スクウェア・エニックス)に入社してから
ちょうどFF6の開発が終わった後のFFチームに配属。最初はモンスターデザイン希望で入ったので、哲さん(野村哲也さん)の元に。そこでモンスター以外の風景絵なんかも描いてたら、当時グラフィックチーフだった高橋さん(高橋哲哉さん)に声をかけられマップチームに。
入って間もなく、坂口さん(坂口博信さん)から『FF7(当時はスーファミ企画段階)のネタ出し会議やるから、書類作って一人づつ皆の前でプレゼンして♪』っという指令がFFチーム全員に。新人組に緊張が走りますw
ネタを書き、自分の絵を添えて、何十人もの前で書類を配り、プレゼン。『うわー社会人って大変だー』っと最初に感じたかな。何のノウハウも無いし、誰も教えてくれる人の居ない自由な社風だったので、試行錯誤しながら、なんとか乗り切ったけど、結果、私の絵もアピール出来た気がする。
新人組でコレが切っ掛けかどうかは分からないけど、辞めた人も出てしまいました。私も当時はシャイな職人肌だったので気持ちは良くわかる・・・・
その後は、FFチームに、フロントミッションのグラフィックの仕事の一部が回ってきて作業したり、クロノトリガーチームと合流して当時としては超巨大プロジェクトチームでグラフィック作業したり、終わったあと、昼にサテラビューの仕事しつつ、夜、聖剣3のデバッグに駆り出されて意識を朦朧とさせてみたり・・あ、次世代機研究チームに居たこともあったな。
このころは、ふつうに会社に寝泊まりしてたな。不夜城でしたスクウェア。って書くと超ブラック企業に見えますが、若いから、楽しんでました。色々と自由な社風でしたし。特に上場前は。
どのくらい自由かっていうと、仕事中、気になる映画観に行ったり、渋谷のゲーセンのロケテストでバンパイアが入ったのを皆でプレイしに行ったり、BB弾が社内に飛び交ってたり、社内の自販機でビール売ってたり・・・・
私自身も上司の許可を得て、画材やエアーブラシのコンプレッサーまで持ち込んでブースで絵を描いてました。コンプレッサーがあまりにうるさいのでよく注意されてたな・・・すみませんw
あと私だけ、純正の任天堂ツールじゃなく、Macで動く自社開発のドットツールやマップエディターをデバッグしながら使うことに。フロアの違う白衣とハンダゴテを持った研究開発部の人たちのとこまで、階段で一日何往復もしました。私だけ使ってるツールが違ったので、先輩方に頼れないし質問も出来ない過酷な環境(笑)
このころのスクウェアネタで一冊本が書けるくらい不思議な会社だったな・・・まぁ、上場後はさすがにお堅い社風になって行きましたけど。
その後、ゼノギアスのアートディレクターで物凄く苦労した後、クロノクロスでもアートディレクターやりつつ、マップ絵も描きまくって、プロジェクト終了後、モノリスソフトの立ち上げに関わることに。
スクウェアに愛着はあったけど、新しい試みが面白そうなので、高橋さんの誘いを二つ返事で受け、モノリスソフトへ。
私自身は、けっこうお気軽に新会社立ち上げに乗っかりました。あんまり深く考えてなかったな(笑)
■1999年、モノリスソフト~現在
役員なので、色々と立ち位置が変わる。開発と経営、両立を見据えて動くことに。20代でなかなか経験出来ないことを沢山学んだ。現在も。
・・・・・あ、モノリスの事も振り返ると物凄く長くなるので、これはまた別の機会にw
まぁ、なんというか、周りの人に恵まれ20年、この業界に居ることが出来ました。ひたすら感謝しております。これからもユーザーの皆様と業界に貢献できるよう歩んでいけたらな、と思います。
とか言いつつも、別の面白そうなこと、楽しいことに一気に針が振れることもあるかも知れません(笑)
そう言っておいたほうが『ボク』らしいかな?
大阪芸大を卒業後、フリーのイラストレーターになろうと上京し、チマっとしたお仕事を頂きつつ、東中野の風呂無しトイレ共用アパートで生活し始めました。
そんな生活が始まってすぐ、当時のゲーメストにスクウェアの求人広告でFF6の画像が使われていたのを見て、『お。ゲームでもこんな絵画的な表現が求められてきているのかー。面白そう』と思い、履歴書や作品を送ってみたのが切っ掛けになります。
就職活動って感覚は全く無かったかな。応募したのも、このスクウェアのみ。
5月入社なのは、4月にこんなフリー期間があったから。
この時スクウェアに通ってなかったら、業種の違う、また別の人生を歩んでいたかもしれません。
■1994年の5月にスクウェア(現スクウェア・エニックス)に入社してから
ちょうどFF6の開発が終わった後のFFチームに配属。最初はモンスターデザイン希望で入ったので、哲さん(野村哲也さん)の元に。そこでモンスター以外の風景絵なんかも描いてたら、当時グラフィックチーフだった高橋さん(高橋哲哉さん)に声をかけられマップチームに。
入って間もなく、坂口さん(坂口博信さん)から『FF7(当時はスーファミ企画段階)のネタ出し会議やるから、書類作って一人づつ皆の前でプレゼンして♪』っという指令がFFチーム全員に。新人組に緊張が走りますw
ネタを書き、自分の絵を添えて、何十人もの前で書類を配り、プレゼン。『うわー社会人って大変だー』っと最初に感じたかな。何のノウハウも無いし、誰も教えてくれる人の居ない自由な社風だったので、試行錯誤しながら、なんとか乗り切ったけど、結果、私の絵もアピール出来た気がする。
新人組でコレが切っ掛けかどうかは分からないけど、辞めた人も出てしまいました。私も当時はシャイな職人肌だったので気持ちは良くわかる・・・・
その後は、FFチームに、フロントミッションのグラフィックの仕事の一部が回ってきて作業したり、クロノトリガーチームと合流して当時としては超巨大プロジェクトチームでグラフィック作業したり、終わったあと、昼にサテラビューの仕事しつつ、夜、聖剣3のデバッグに駆り出されて意識を朦朧とさせてみたり・・あ、次世代機研究チームに居たこともあったな。
このころは、ふつうに会社に寝泊まりしてたな。不夜城でしたスクウェア。って書くと超ブラック企業に見えますが、若いから、楽しんでました。色々と自由な社風でしたし。特に上場前は。
どのくらい自由かっていうと、仕事中、気になる映画観に行ったり、渋谷のゲーセンのロケテストでバンパイアが入ったのを皆でプレイしに行ったり、BB弾が社内に飛び交ってたり、社内の自販機でビール売ってたり・・・・
私自身も上司の許可を得て、画材やエアーブラシのコンプレッサーまで持ち込んでブースで絵を描いてました。コンプレッサーがあまりにうるさいのでよく注意されてたな・・・すみませんw
あと私だけ、純正の任天堂ツールじゃなく、Macで動く自社開発のドットツールやマップエディターをデバッグしながら使うことに。フロアの違う白衣とハンダゴテを持った研究開発部の人たちのとこまで、階段で一日何往復もしました。私だけ使ってるツールが違ったので、先輩方に頼れないし質問も出来ない過酷な環境(笑)
このころのスクウェアネタで一冊本が書けるくらい不思議な会社だったな・・・まぁ、上場後はさすがにお堅い社風になって行きましたけど。
その後、ゼノギアスのアートディレクターで物凄く苦労した後、クロノクロスでもアートディレクターやりつつ、マップ絵も描きまくって、プロジェクト終了後、モノリスソフトの立ち上げに関わることに。
スクウェアに愛着はあったけど、新しい試みが面白そうなので、高橋さんの誘いを二つ返事で受け、モノリスソフトへ。
私自身は、けっこうお気軽に新会社立ち上げに乗っかりました。あんまり深く考えてなかったな(笑)
■1999年、モノリスソフト~現在
役員なので、色々と立ち位置が変わる。開発と経営、両立を見据えて動くことに。20代でなかなか経験出来ないことを沢山学んだ。現在も。
・・・・・あ、モノリスの事も振り返ると物凄く長くなるので、これはまた別の機会にw
まぁ、なんというか、周りの人に恵まれ20年、この業界に居ることが出来ました。ひたすら感謝しております。これからもユーザーの皆様と業界に貢献できるよう歩んでいけたらな、と思います。
とか言いつつも、別の面白そうなこと、楽しいことに一気に針が振れることもあるかも知れません(笑)
そう言っておいたほうが『ボク』らしいかな?
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